猫舌

感情をどうにかこうにか言葉に

安心と信頼

言葉っていうのは、脳から出てくる時と、心から出てくる時があるんじゃないかと思う。

脳から出てくる時も、理論を話してる時と、事実を話してる時と、考えを話してる時がある感じで、同じ口から何かが出てても、全然違うんじゃないか。あと、「気持ち」?

でもなんか心から出てる時は、実は少なくて、脳で話してる「気持ち」と、心から出てる「魂」みたいなものの間には少し差があるような気もする。

君と会話をする中で、そのことを強く意識することが多い。これまで出会った人間で、気持ちや、心で、会話(魂)が通じた(と自分が感じた)人は何人いるだろうか。

勿論好きだというバイアスがあるとしても、それでも、わたしは人生についてこう思う、とか、こうあるべきだ、とか、そんな口に出して他人に伝えることが意味をなさないような言葉を、なんとかして君に伝えたいと、なぜか思う。多分ちょっと迷惑だと思うがこれでもあえて話してるんだ。

 

擬似的な愛だとか恋だとか、恋愛likeなことはそれなりに習得したり脳で理解してきた気がするけれど、君が与えてくれる「安心と信頼」は、誰からも受け取ることのないものだった。

正確に言えば、誰かはもしかすると与えてくれていたのかもしれないけど、私にはそれを受け取る準備もできてなかったのかもしれない。

心の底から心地よく幸せで、なんだかそれはどこにあるかも、実在するかもわからない、架空の楽園にある、「家族」という存在にとても近い気がしている。

与えていただいた「安心と信頼」はこの世の何物にも替え難く、一生かけてお返ししないと、なんて思ってしまう。

私は君に、何をしてあげられるのだろう?君が君らしく幸せに生きるために、できうることはしたい。でもきっと幸せなんて、人に何かしてもらうんじゃなくて、自分で成し遂げるものだ。

 

  • 容れ物が邪魔ね君の神経と私の神経繋げたくない?

 

 

雨音

雨は眠い、雨音を聞きながら寝るのがこの世で一番好きなことと言っても過言ではない。

 

定年退職したら海外行こうよと言ったけどなんだかぼんやりしたお返事だった、私が君の定年時に存在してないのか、海外はないなぁと思ってるのか、どっちなんだろう、なんて思ってしまった。

 

私と過ごせていることも、ツイてることのひとつみたい、嬉しいような、悔しいような。

私にとっては君と会ってその波長を浴びることが、最大の幸せ。

 

  • 雨音に微睡む部屋の湿り気に潤う君と眠りたい夜

してほしい

昔は、誰かに、何かをしてもらいたい、という欲求が強く、まぁそんなものは満たされないので、常に不満だったように思う。

自分で自分を満たすようになり、他人に対する欲求が少なくなって、その結果、恋人に求めるものも変わったのではないかという気がしている。

 

君は求めなくても、たくさんのことを与えてくれる。期待をしていないから、驚くとともに喜びも大きい。

自分を、しっかりと土台の上において、真ん中に据えて、そして相手を慈しむこと。

君も私も、それぞれの人生を自ら生きていて、お互いに何かを大きく求めたり依存したり寄りかかるでなく、だから、そんなお互いが、自らの意思で選んで2人の時間を作り過ごしていることが、心地よいのだと感じる。

 

まだ私は自立しきれてはいないかもしれないけれど、君の意思と私の意思で、2人の未来を作って行ければと思っている。

これまで他人と疎通できなかった、自分の中に潜む渇望みたいなものを、なんだか表現したくて、そして多分君の中にもある同じような魂の囁きを、ゆっくりと理解したいと思う。

 

  • 西陽刺す風涼やかな五月の日去年よりも君を知りたい

 

愛情

健康が、努力なしで手に入らないように、愛も努力なしには継続できないもので。

自分だけが努力してもダメだし、相手だけが努力してもダメだし、好きじゃないとそもそも続かないし続ける気も起きない。

好きとは、なんだろう。なぜ、わたしはこんなにも好きだなぁと思うんだろう、目が曇ってるだけなんだろうか?

 

よく恋人には父性を求めていたと思う、君に対してはどうかといえば、それも多分にあるが、母性を発揮したくなる気持ちも強く、相互に父親母親と息子娘をしているような感覚になる。

これまでも自己犠牲的に誰かに身を捧げる感覚はたくさんあったと思うが、それとは根本的に違う感覚で、ただ愛情を交換しあえている実感に満たされ続けている。

愛することも、愛されることも、それなりに学んでいたかもしれない、でも、愛し合うことは、初めて知ったのではないかと感じる。

 

  • 愛おしい顔が嬉しい顔をするそれを見るため長生きしたいの

男女のテンプレ

生まれて初めて出会う人間が両親なので、両親同士の関係や、自分と父親との関係が、男女関係に関する原始印象に他ならない。

私について一言で言えばそれは男女関係イコール男尊女卑で、生まれ育った地域環境も大きな要因であるかもしれないが、それを絶対的に阻止するために、「反動」として、18歳まではとにかく「男とは敵である」という概念を確立した。一方で、納得はいかないものの心のどこかで「結局男に女は依存して生きる」という相矛盾した価値観を持ってしまっていたのかもしれない。

それは大人になり恋愛関係、いや、信頼関係を築く上でも大いに障害をもたらし、頼ってはならないという敵対意識と、激しく依存したい気持ちが衝突して、結果として、頼ることの許されない男性の前でひたすら苦悩し、結果として年月を無駄にしたのかもしれない。

そう、自分の作りあげた壁により、結果として信頼関係を築けるような男性を自ら遠ざけていたのだろう。

 

翻って君の人生、および、彼女の人生について思いを馳せてみた。

推測に過ぎないが、君の場合、母イコール人生で初めて触れ合う女性は、夫に対して不満を持っていたという事実から、君は女性に対し、①「女性とは満たすべき存在である」と考えると同時に、②「女性とはもっと自立しているべきである」という概念を持って育ったのではないか?そこになんだかハマってしまったのが彼女であると推測している。

彼女の場合もその家庭環境(おそらく女尊男卑に近いと思われる)から、男性に対し、①「女性に服従すべき」②「女性に圧倒的に打ち勝つべき」という相矛盾した概念を持っていたのではないか。

つまり、君の概念①と彼女の概念①は歪に噛み合ってしまい、②が全く噛み合わなかったが故に破綻を招いたのではないか?

 

結局のところ、固定概念に基づき自分の作り出した壁が、その壁を破壊してくれるような人との出会いを遮断している。

 

君は私のなかにあった「男性像」からかけ離れた特長を持っており、そんな私たちがお互いを認識し惹かれあうことができたのは奇跡に近いと感じている。

私は様々な失敗を繰り返す中で、 「結局男に女は依存して生きる」という固定概念を少しずつ昇華させることに成功し、自己を確立し自ら歩こうと努力したことで、自ら打ち立てた高い壁を自力で少し破壊させることに成功できたからこそ、君と出会えたわけで、さらに君の力も借りて完全に破壊させつつあるのではないか。

ある意味君の、「女性とは満たすべき存在である」も、依存的な思考ともいえる。満たすという行為・存在に、依存しているという意味で。

 

結局のところ君も私も男女関係における依存についてほんの少し歪んだ固定概念を持っていたが故にうまくいかなかったところが、自己の自立により、より視界がクリアになったのではないか。

自立とはかくも複雑で繊細で納得するのが難しいものである。

男女は依存しあうものでなく、信頼しあうもの、しかしながら依存と信頼はとても似ていて、たまに間違えそうになる。

 

そんなことにしっかり気づき振り返ることができたのは、君とたくさんの会話をして、言葉を紡いだからだと思っている。

 

  • 息切らし歩み登ったこの丘で君と眺める絶景ひとしお

印象

そう、今日は多分ちょうど出会って一年な気がする。出会ったその日から、どうしても、もっと知りたいと思えた、なぜかしら。

目がとても印象的だった、大きくて可愛いのに深淵さがあって、そして、人懐っこい小動物感もあった。

あとはそうだ、聞いていてとても気持ちのよい声だった。電話を通すと生の音声よりも輪郭がはっきりしていて明瞭に聞こえる。

きっとわたしのことだから、言葉の端々に哲学的なトラップでも仕掛けていて、そこにちゃんと反応できているか確かめたような気がする。

くだらない話しか盛り上がらない相手はよくいるものだ、きっとそうでないことを、ちゃんと受け取れたから、本気を出したんじゃないか?

 

共に過ごすようになり、この一年で、見違えるように精神的に成長できたと実感している。

会話のできる相手がいるということはこうも自らの人生を豊かにするものかと驚いているし、もっと早く出会えていればと思わないこともない。

 

そうだった、若い頃から結婚相手は晩酌ができる人だと言ってきたわたしだが、2人の人生や将来や人間観や哲学や葛藤や全ての感情を言葉にして話し合えたら、死ぬまで晩酌は続けられるはず。

 

2人の会話の先に、未来があることを、どうしようもなく眩しく感じる。明るくても明るくなくても、君がいるのであれば、輝いてるに決まってる。

 

  • あの日から一年が過ぎ色褪せぬわれらのページに想い記して

寂しさ

寂しさ、が人生の大半を閉めていた、そう、宇多田ヒカルが確か言っていた、人は元来寂しかったり悲しかったりする生き物で、誰かといることでその生来の辛さが抑えられているだけだと。

人は誰しもが、全く異なる思考回路で、たまたま後天的に似通った経験や環境にいれば、ごくわずかに共通点が生まれるかもしれない、それはおそらくラッキーなことで。

人が誰かを好きになるのは、確かに自分にはない何か憧れを抱くような性質があるから、というのには賛同する。

でも、共通点に惹かれることだって、多いはずだ。しかし共通してればなんでもいいってわけでもないはずだ。

 

ガネーシャがそういえば言っていた、人の夢(起きてみるやつね)は、人生における辛く苦しい経験に紐づいているものだと。

わたしと君は、あまり似ていない、でも人との関わりにおいてつらくもどかしく思う経験をしてきて、それを今度こそなんとかしたいと思う小さな夢のようなものが似通っているから、共鳴しているような気がしている。

 

なんだか心の中に巣食っている「寂しさ」は、最近あまり暴れることはない。

それはこころをなんとか言葉にして差し出したときに君がしっかりと味わってくれるからだと思っている。

問題は言語化の過程が非常に難産なところ。

 

  • 愛してるよりも言えない寂しいを言える君のかけがえのなさ